フレディ・マーキュリーの紹介
2019年4月3日 2:21 AM
クイーンのボーカル兼ピアノのフレディ・マーキュリーは、当時イギリス領だった、タンザニアのザンジバル島で、ペルシャ系インド人であるパールシー[インドでは、ペルシャ人を意味するパールシーと呼ばれ、数としては少ないが非常に裕福な層に属する人々]の両親の間に生まれた。
5歳の頃にピアノを習い始める。その後、父の仕事上の関係でインドに移り住み、ボンベイ郊外の全寮制の高等学校に通う。この頃から複数のロックバンド(ピアノとヴォーカルを担当)で活動を始めた。
一度、ザンジバルに戻った後、1964年に家族揃ってイギリスに転居 。イーリング・アートカレッジに進学し、グラフィック・デザインを学ぶ。
クイーンの母体である、ブライアン・メイとロジャー・テイラーの在籍していたバンド「スマイル」は、1969年9月にシングル「Earth」(B面は「Step On Me」)をリリースしたが、成功せず、ヴォーカル兼ベースのティム・スタッフェルが脱退。その後任として、フレディ・マーキュリーが加入。
1970年7月12日のライヴよりクイーンと名乗り始める。
クイーンに参加の当初からしばらくは、ロジャー・テイラーと、ケンジントン・マーケットで古着屋を経営していた。
アルバム制作(レコード契約)から発売までに2年近くももたついた1973年発表のファーストアルバム『戦慄の王女』は、リリース当時、イギリスではメディアから酷評され、遅れてきたグラムロックバンドと見られることもあった。
1974年3月セカンド・アルバム『クイーン II』は、イギリスのメディアの評価は低いままだったが、シングル曲「輝ける7つの海」のヒットもあり、アルバムは全英5位まで上がるヒット作になった。このアルバムをきっかけに本格的なブレイクにつながるようになる。
1974年、サード・アルバム『シアー・ハート・アタック』からの先行シングル「キラー・クイーン」が全英2位のヒットとなった。またこの年、モット・ザ・フープルの前座として初のアメリカツアーを行うが、メイが肝炎にかかってしまいツアーの途中でクイーンは降板余儀なくされる。この頃日本では、ルックスや煌びやかなサウンドから若い女性を中心にいち早く人気を集め、翌1975年に初来日した。空港には1200人のファンが押し寄せ、武道館ライブは大成功を収めた。
1975年2月にはカンサス、スティクスらの前座として再びアメリカツアーを開始する。ツアーは各地で大盛況を得て、「キラー・クイーン」は全米12位まで上昇する。
1975年10月には、4枚目のアルバム『オペラ座の夜』からの先行シングル「ボヘミアン・ラプソディ」が全英9週連続1位の大ヒットを記録。「ボヘミアン・ラプソディ」はチャリティーでない曲としてはイギリス史上最高の売り上げを記録し、4枚目のアルバム『オペラ座の夜』は初の全英1位を獲得、アルバムはクイーンに批判的だったメディアからも非常に高い評価を得た。
上記のクイーン成功の中で、フレディ・マーキュリーは、雑誌『ミュージック・ライフ』の人気投票では、1975年度の10位を皮切りに1976年度から3年連続で1位に輝き、1980年度にはキーボード・プレイヤーとして1位に、1981年度にはヴォーカリストとして再び1位に返り咲いている。
フレディ・マーキュリーの声域、幅広い声域(4オクターヴとされている)、正確な音程、ライヴでのパフォーマンスなどから、最高のヴォーカリストの一人と評される。
フレディは、1980年リリースの『ザ・ゲーム』まではクイーンの代表曲の多くを作曲した。
「ボヘミアン・ラプソディ」「キラー・クイーン」「愛にすべてを」「ドント・ストップ・ミー・ナウ」「伝説のチャンピオン」「バイシクル・レース」「愛という名の欲望」など彼の代表的な作品である。作曲のほとんどはピアノを用いている。
フレディは、影響を受けたアーティストに、自筆のバイオグラフィで、ジミ・ヘンドリックス、ビートルズおよびジョン・レノン、ロバート・プラント、ライザ・ミネリなど、またクラシックの作曲家(パガニーニ、チャイコフスキー、ラフマニノフ、オペラ曲)などの名前を挙げることもあった。
また、親日家であり、来日公演時以外にもお忍びで来日していた。伊万里焼コレクターであり、ロンドンの自宅には日本庭園を設けていた。日本語にも通じており、来日公演時のMCの半分は日本語だった。アルバム『バルセロナ』に収録されている「La Japonaise」の歌詞の大部分は日本語で書かれている。
1984年発売、クイーンのアルバム『ザ・ワークス』に収録された、「レディオ・ガ・ガ Radio Ga Ga」(作曲はロジャー・テイラー)シングルは、イギリスで2位、アメリカで16位、その他19カ国で第1位を獲得する世界的大ヒットとなった。
1985年リリースのシングル「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」は、ノエビア化粧品のCMに使われ、日本ではお馴染みの曲であった。
80年代半ばからメディアの間でフレディがHIVに感染しているのではないか、という憶測の中1991年11月23日、HIVに感染していることを初めて公表。翌24日、HIV感染合併症のひとつであるニューモシスチス肺炎により死去。45歳という若さだった。
フレディの死にともない、クイーンは活動を休止した。1992年4月20日には残されたクイーンのメンバーが中心となり、イギリス・ロンドンのウェンブリー・スタジアムでフレディ・マーキュリー追悼コンサートが行われた。
5歳の頃にピアノを習い始める。その後、父の仕事上の関係でインドに移り住み、ボンベイ郊外の全寮制の高等学校に通う。この頃から複数のロックバンド(ピアノとヴォーカルを担当)で活動を始めた。
一度、ザンジバルに戻った後、1964年に家族揃ってイギリスに転居 。イーリング・アートカレッジに進学し、グラフィック・デザインを学ぶ。
クイーンの母体である、ブライアン・メイとロジャー・テイラーの在籍していたバンド「スマイル」は、1969年9月にシングル「Earth」(B面は「Step On Me」)をリリースしたが、成功せず、ヴォーカル兼ベースのティム・スタッフェルが脱退。その後任として、フレディ・マーキュリーが加入。
1970年7月12日のライヴよりクイーンと名乗り始める。
クイーンに参加の当初からしばらくは、ロジャー・テイラーと、ケンジントン・マーケットで古着屋を経営していた。
アルバム制作(レコード契約)から発売までに2年近くももたついた1973年発表のファーストアルバム『戦慄の王女』は、リリース当時、イギリスではメディアから酷評され、遅れてきたグラムロックバンドと見られることもあった。
1974年3月セカンド・アルバム『クイーン II』は、イギリスのメディアの評価は低いままだったが、シングル曲「輝ける7つの海」のヒットもあり、アルバムは全英5位まで上がるヒット作になった。このアルバムをきっかけに本格的なブレイクにつながるようになる。
1974年、サード・アルバム『シアー・ハート・アタック』からの先行シングル「キラー・クイーン」が全英2位のヒットとなった。またこの年、モット・ザ・フープルの前座として初のアメリカツアーを行うが、メイが肝炎にかかってしまいツアーの途中でクイーンは降板余儀なくされる。この頃日本では、ルックスや煌びやかなサウンドから若い女性を中心にいち早く人気を集め、翌1975年に初来日した。空港には1200人のファンが押し寄せ、武道館ライブは大成功を収めた。
1975年2月にはカンサス、スティクスらの前座として再びアメリカツアーを開始する。ツアーは各地で大盛況を得て、「キラー・クイーン」は全米12位まで上昇する。
1975年10月には、4枚目のアルバム『オペラ座の夜』からの先行シングル「ボヘミアン・ラプソディ」が全英9週連続1位の大ヒットを記録。「ボヘミアン・ラプソディ」はチャリティーでない曲としてはイギリス史上最高の売り上げを記録し、4枚目のアルバム『オペラ座の夜』は初の全英1位を獲得、アルバムはクイーンに批判的だったメディアからも非常に高い評価を得た。
上記のクイーン成功の中で、フレディ・マーキュリーは、雑誌『ミュージック・ライフ』の人気投票では、1975年度の10位を皮切りに1976年度から3年連続で1位に輝き、1980年度にはキーボード・プレイヤーとして1位に、1981年度にはヴォーカリストとして再び1位に返り咲いている。
フレディ・マーキュリーの声域、幅広い声域(4オクターヴとされている)、正確な音程、ライヴでのパフォーマンスなどから、最高のヴォーカリストの一人と評される。
フレディは、1980年リリースの『ザ・ゲーム』まではクイーンの代表曲の多くを作曲した。
「ボヘミアン・ラプソディ」「キラー・クイーン」「愛にすべてを」「ドント・ストップ・ミー・ナウ」「伝説のチャンピオン」「バイシクル・レース」「愛という名の欲望」など彼の代表的な作品である。作曲のほとんどはピアノを用いている。
フレディは、影響を受けたアーティストに、自筆のバイオグラフィで、ジミ・ヘンドリックス、ビートルズおよびジョン・レノン、ロバート・プラント、ライザ・ミネリなど、またクラシックの作曲家(パガニーニ、チャイコフスキー、ラフマニノフ、オペラ曲)などの名前を挙げることもあった。
また、親日家であり、来日公演時以外にもお忍びで来日していた。伊万里焼コレクターであり、ロンドンの自宅には日本庭園を設けていた。日本語にも通じており、来日公演時のMCの半分は日本語だった。アルバム『バルセロナ』に収録されている「La Japonaise」の歌詞の大部分は日本語で書かれている。
1984年発売、クイーンのアルバム『ザ・ワークス』に収録された、「レディオ・ガ・ガ Radio Ga Ga」(作曲はロジャー・テイラー)シングルは、イギリスで2位、アメリカで16位、その他19カ国で第1位を獲得する世界的大ヒットとなった。
1985年リリースのシングル「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」は、ノエビア化粧品のCMに使われ、日本ではお馴染みの曲であった。
80年代半ばからメディアの間でフレディがHIVに感染しているのではないか、という憶測の中1991年11月23日、HIVに感染していることを初めて公表。翌24日、HIV感染合併症のひとつであるニューモシスチス肺炎により死去。45歳という若さだった。
フレディの死にともない、クイーンは活動を休止した。1992年4月20日には残されたクイーンのメンバーが中心となり、イギリス・ロンドンのウェンブリー・スタジアムでフレディ・マーキュリー追悼コンサートが行われた。
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カテゴリー : クイーン(Queen)- メンバー紹介